私の中の「日本人」

日本国外に長く住んでいるとアメリカナイズなるものがおきまして、「ずっと日本に住んでいた場合の自分」と少なからずも距離が出てきてしまいます(実存しない「たらればセルフ」は想像しづらいけどね)。生粋の日本人とも、距離を感じてしまったりして。自分はちょっと違う、なんて。考えてみれば、おかしな事かもしれませんけど、そんな頃もあったなぁ(遠い目)。私の知り合いにも「自分は “ex-Japanese”だ」なんて言ってる人もいましたし(「元日本人」ってのも不思議なコトバ)。アメリカに住んでしばらくになる日本人の生徒に「おはよう!」って声かけても “Good morning!”って返ってきたり。「やっと周りのアメリカ人の友達と同化したのに、『外国人です』ってカミングアウトするようで嫌」なんだってさ。まぁ、わかりますけどね。かく云う私も、アメリカから日本に帰っても、成田空港内までは日本人とぶつかった時、“Excuse me.”だった頃もあったしね。リムジンバスの中で、徐々に日本人に戻るがごとく。こういうのって、意識的な場合もあるし、無意識に距離を置いてしまう事だってあるでしょう。数年前は、私もこんな詩書いてましたから。

日本へ

私は非国民と呼ばれても
アメリカかぶれと思われても
仕方ないかもしれない
第一、国内に住んでいないし
国のために血を流そうともしないだろう
神道も仏教でもないバタ臭い基督者だし
靖国にも先祖の供養にも縁がないだろう

いつか契りを結ぶのも
そして家庭を築くのも
日本人とでないかもしれない
第一、近々日本人に惚れてないし
良妻賢母になる素質もないだろう
感じ方も考え方もどこか変わってきているし
国に帰れば変わり者扱いされるのだろう

それだけれども
それだけれども、日本よ

どうか四月には 桜の夢を見させ
そして子供達には 昔話を語らせて欲しい
どうか八月には 平和を祈らせ
そして日本語で 拙い詩を綴らせて欲しい
どうか事あるごとに 日本を応援させ
そして 日本人である事を誇らせて欲しい

なぜならば
なぜならば、日本よ

この私には 紛れもなく日本人の血が流れ
この身も心も 日本で育まれた土台の上に
今も こうして生きているのだから

私はいつまでも日本人
何処にいようと 誰といようと

自分から随分と日本に対して距離を置いているような感じですよね。非国民なんて誰も呼んでないのにさ。変わり者はもとからみたいだし・・・それに日本人に惚れないなんて決めてちゃもったいないし、良妻賢母だってどの国の人だってなれるのに言い訳してちゃダメじゃん。ちなみに最後の二行は2年位前に書き足したものです(なんか付け足し感あるぞ)(でもこれで距離感、縮まりましたよね(笑)。

ところで、今までアメリカの公立の学校で試行錯誤しながらESLを教えていた頃、大変参考になったバイリンガル教育の方法という本があります。その中で、加算的・減算的バイリンガリズムという用語を知りました。それによりますと・・・

第二言語を学ぶ事が、

良い効果をもたらす場合 (母語も第二言語も上達)=「加算的バイリンガリズム」(めでたしめでたし)

悪い効果をもたらす場合 (母語が衰えたり、母語をネガティブに捉えたり) =「減算的バイリンガリズム」(残念!)

更にこの本には、人は第二言語を学んでバイリンガルになると同時に、その言語の背景にある文化をも理解して、「バイカルチャル」(bicultural)になる事が理想的だとありました。おお〜、バイリンガルは良く聞く言葉ですが、「バイカルチャル」っていいですね!良い効果のバイカルチャルは「加算的バイカルチャリズム」とも呼べるかも?いや、足し算的な「日本+英語圏」の二つの視点だけではなく、かけ算的な「日本x英語圏」の新しい考え方、視点がきっと持てる。これぞ「乗法的バイカルチャリズム」!?この「両方の文化を知ってるならわかるよね」的な質問をされる事が、アメリカでも日本でも結構あるんですよねぇ〜(うまく答えられないことが多いけど)。あちら側でもこちら側でもない、独自の視点、持ちたいものです。

教員室でも「ラスト・サムライ見てどう思った?」なんてアメリカ人の同僚によく聞かれたりね。相手はやはり「日本人として」の私の感想を期待しているわけで「渡辺謙が良かったですねぇ」だけじゃマズいわけですよ。(「どうしてトム・クルーズだけ、生き残ったんでしょうかね?」とかもダメ?)ある先生に「切腹についてどう思いますか?」なんて聞かれて、「今の時代では、日本でもそんなことする人はいませんよ。」と答えたら、「でも日本じゃ社長や校長が責任取りますって、よく自殺してるじゃないか。腹切りの延長じゃないんですか。」と言われてしまった。(そういうことなの?!)他国の事でもよく知ってたな、この人は。私は勉強不足ですよ、自国についても。(思わず英語版「武士道」買っちゃいました。まだ読んでませんが・・・)

歴史といえば、教会の昼食中にある元軍人さんが私が日本人だとわかったら、「アメリカが原爆を落としたのは戦争終結のためにやった正しいことなのだ!」と延々とやりだした。まぁ、アメリカ人でそう思っている人は多いから慣れてるけど、教会ではやめてよね、と思ったのでした。「現地校のアメリカ史の授業で、第二次世界大戦のとこになると、居心地悪くって」と日本人生徒も申しております。でも、そういうのはお互い様ですよね。今まで日本、カナダ、アメリカで出版された歴史の教科書を見てきましたが、みんな自国を正当化しがちで他国を責めがち。殴られた方が「痛い痛い!」って言えば、殴った方は「そっちが殴られるような事をしたんだ」とか「そんなに強くは殴ってないぞ」とか言う。で、第三者が「殴っちゃ駄目じゃないか、やめろよ」と言って出てきて、もっと殴ったり。「そんなに痛かったのかい」ってわかろうとすれば、世の中も変わるのにね。そんなに世の中単純じゃない事はわかっていますが、日本人として、クリスチャンとして、今日は平和を祈らせて頂きます。

P.S.
今日はこれを書いた後、NHKの「日本の、これから-じっくり話そう・アジアの中の日本」という番組を観ました。(まだ続いています)アジアの国の人達と日本人が、これまでの歴史の解釈の相違点や、これからお互いどうやって共存・協力していくべきかなど討論しています。やっぱりもっと勉強しなくちゃな。学生の頃は歴史が苦手でしたが、歴史って単なる学校の一科目ではないですよね。簡単に「国のために血を流す」とか「平和を祈る」とか、詩に書く前に、もっと自国や他国の痛みを知らなくては・・・

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