言葉なんかおぼえるんじゃなかった

「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」

たとえ私がそう言ったとしても、そこには「夜中にアイスクリームなんか食べるんじゃなかった」くらいの重みしかありません(実際、夜な夜な本を読んだり詩を書いたりしたせいで睡眠不足になり、後悔することが多々あります)。もしや詩がお好きな方ならば、この台詞から田村隆一氏の「帰途」を連想されたことでしょう(以下、一部抜粋)。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きていたら
どんなによかったか

素晴らしい詩です。しかし、作者が文字通り、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と思って書いたとは思えない。識字率99%を誇るこの日本において明らかにそれはハンデになるし、詩人・随筆家・翻訳家として食べていた彼が言葉を失えば、ほとんどの収入がパーになる。そう、これは冒頭において読者を詩に引き込む巧妙なレトリック。それが悪いというのではありません。そうやって言葉を操るのが、詩人の仕事ですから。言葉のせいで残された傷が、血と涙を流しながら呻いているようなこの詩に、相応しい冒頭句です。

しかし、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という言葉が最も似つかわしい人がいます。その名はブロニスワヴァ・ヴァイス、通称パプーシャ、歴史上最初のジプシー女性詩人です。書き言葉を持たないジプシーの一族にとって、文字はよそ者の呪文で悪魔の力。それでも文字に強烈に惹かれ、読み書きをこっそり覚えようとした少女は、打たれ蔑まれました。やがて彼女の詩の才能はジプシー社会に逃げこんでいた作家に知られるところとなり、彼女の詩を収めた本も出版されます。しかし、このことがジプシー社会の秘密を明かす裏切り行為とみなされて、彼女はジプシー社会から追放され、精神を病んでしまうのです。精神病院で「読み書きさえおぼえなけりゃ、幸せだった」とつぶやくパプーシャ。この言葉にはレトリックなどではない、実感がこもっています。

このジプシー詩人を描いているのが「パプーシャの黒い瞳」という映画です。その内容もさることながら、ナチスが台頭する時代の重さと自然界の厳しさを感じさせるモノクロ映像の美しさは、素晴らしいものでした。でも、一番惹きつけられたのは、やっぱりパプーシャの詩。晩年には「詩なんて一度も書いたことがない」とさえ宣うようになってしまった、決してハッピーエンドではない彼女のモノクロ人生の中で、その詩は力強く煌めいていました(以下ネタバレあり、というか既にあり)。


 私は「もっと彼女の詩が読みたい」という気持ちに突き動かされ、この映画が上映された岩波ホールで「パプーシャ その詩の世界」という本を購入して、映画鑑賞後にビル地下で夕食を食べながら読みました。大変、美味しく頂きました。その詩の断片をご紹介いたします。

願いは私を向かわせる、読むことへ、
紙に書くことへ、
私が生きているあいだは
きれいな詩を書けますように。
(私は貧しいジプシー女)

私は火が大好き、自分の心と同じくらいに
大きな風と小さな風が
ジプシーの少女を育てあげ、
遠く世界へ駆り立てた・・・・・
(パプーシャの頭から生み出されたジプシーの歌)

私は山に行こう、
高い山に、
花で作られた
美しく華やかなスカートをはいて、
そしてありったけの力で叫ぼうーー
(私の大地よ、私はあなたの娘)

聞いて、弟よ、私の語ることをーー
私はあなたに詩と歌を残そう。
あなたが思い出すように、
(中略)
自分の中にあるものすべて、
自分の頭に浮かんだすべてを、
生涯あなたに与えることを。
(私は貧しいジプシー女)

ここで「弟」と呼ばれているのは、共産主義政権に追われてジプシー社会に身を隠していた期間にパプーシャが詩人であることを見いだした、作家そして詩人でもあるイェジ・フィツォフスキです。彼女が連ねる美しい言葉を聞いて「君は詩人だ」と告げますが、「詩人って?」とキョトン顔のパプーシャ。それまで他の詩人も知らず、人の詩を読んだこともないのに、自然に詩が涌き上がるとは、天性の詩人ですね!やがて、彼はパプーシャに住所を手渡し、「詩を書いて送ってくれ」と告げて、ジプシー社会から離れます。彼が後に出版したのが、パプーシャの詩だけをまとめた詩集だったら良かったのかもしれません。でもパプーシャの詩の数々は、フィツォフスキ著作である「ポーランドのジプシー」という本に収録されたのです。しかしその本は、それまで数百年のあいだベールを被っていたジプシーの歴史や習慣を初めてヨーロッパ社会に露にするものでした。そのため、この本の出版は外部との接触を拒むジプシー社会の怒りを買ってしまったのです。また、当時はフィツォフスキがジプシーの定住化に賛同しており、著書の中でパプーシャを定住化政策の成功例として取り上げたことから、彼女も裏切り者として攻撃されます。彼女の詩そのものはジプシー社会を裏切るものではなかったと思いますが、詩が政治的なプロパガンダと共にパッケージされると、やっかいですね。彼女もジプシー社会から断絶されてしまいます。たった30編の詩のために、人生を狂わされた詩人パプーシャの「読み書きさえおぼえなけりゃ、幸せだった」という言葉が、重く胸に迫ってきます。その重さとは対照的に、踊るような彼女の詩にさらに惹き付けられるのです。

詩作とは、本来リスキーなもの。普段口にしない思いを、普段口にしないような文体で、書き連ねる。それを普段関わっている人達の目に晒すのは、かなり赤面モノです。詩さえ書いていなければ、私も変人と思われないで済んだかもしれない(ウソ)。でも、その晒され具合は、あくまで個人レベルのものです。パプーシャの場合、その詩は数百年のあいだジプシー社会を覆っていたベールを剥いで晒してしまった。自分が彼女の立場だったらどうでしょう、やはり「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という気持ちになると思いますね。ある程度の個人的、そして公的リスクは避けられないとはいえ、そんなことにはならないように、自分が作る作品の内容、それを託す相手、パッケージの意図、出すタイミング、など吟味しながら創作に励みたいものです。・・・などとエラソーなことを書きつつ、またまた長すぎるブログ記事を書いてしまった私は、時計を見やりながら、「夜中にブログ記事なんか書くんじゃなかった」とひとり呟くのでありました。

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