わたしが生まれてきた理由は、わたしが通った後に見えてくる

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最近、「わたしが生まれてきた理由は子どもを産むためではないことは確かだ」というブログ記事を読みました。これを書いているのは、最近お知り合いになったイシワタキミさん。帰国子女で詩人、という共通点も相まって、お話ししてみると楽しくてとても素敵な方でした。詩もカッコイイし。きっと生き様もカッコイイんだろうな〜、と思っていたら、このブログ記事ですからね、惚れました(照)。

そこで、私も考えてみたんです。私が生まれてきた理由は何だろうって。私だっていつか子どもを産みたいと思っている。でも、私が生まれてきた理由は子どもを産むためではない。私だっていつか詩集を編みたいと思っている。でも、私が生まれてきた理由は詩集を編むためではない。私だっていつか絵本を・・・(以下、省略)

だったら私が生まれてきた理由って何?と考えて、キミさんに送った私の言葉は「私は私の人生を生きるために生まれてきた。」おおお、なかなかカッコイイな、我ながら。「でも、それってはっきりした目標がない人の言い訳っぽくね?」という脳内批判を軽くスルーしながら私が思うのは、「○○のために生まれてきた」はずなのに、その○○がもし出来なかったら、「私の人生なんだったの?」って泣き言いうことになるだろうと。でも、人生には個人の願望や目標以上の意味があるはず。例えば、子どもを産めずに明日死んだとする。詩集も出せずに明後日死んだとする(ミニ詩集なら出したけどね!絶賛販売中)。そこで私の人生、意味がなかったかといえば、そんなことはない。たとえ、子どもを産まず、詩集が編めなかったとしても、多くの愛すべき子ども達に出会わせてもらったし、不格好でも愛しいと思える詩を書いてきた。それでいいじゃないですか。金太郎飴は、途中で切れても金太郎飴のはず。そりゃあ、もっと生きて頑張って、願望や目標をカタチにしていきたいとは思ってますけどね。

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言葉なんかおぼえるんじゃなかった

「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」

たとえ私がそう言ったとしても、そこには「夜中にアイスクリームなんか食べるんじゃなかった」くらいの重みしかありません(実際、夜な夜な本を読んだり詩を書いたりしたせいで睡眠不足になり、後悔することが多々あります)。もしや詩がお好きな方ならば、この台詞から田村隆一氏の「帰途」を連想されたことでしょう(以下、一部抜粋)。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きていたら
どんなによかったか

素晴らしい詩です。しかし、作者が文字通り、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と思って書いたとは思えない。識字率99%を誇るこの日本において明らかにそれはハンデになるし、詩人・随筆家・翻訳家として食べていた彼が言葉を失えば、ほとんどの収入がパーになる。そう、これは冒頭において読者を詩に引き込む巧妙なレトリック。それが悪いというのではありません。そうやって言葉を操るのが、詩人の仕事ですから。言葉のせいで残された傷が、血と涙を流しながら呻いているようなこの詩に、相応しい冒頭句です。

しかし、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という言葉が最も似つかわしい人がいます。その名はブロニスワヴァ・ヴァイス、通称パプーシャ、歴史上最初のジプシー女性詩人です。書き言葉を持たないジプシーの一族にとって、文字はよそ者の呪文で悪魔の力。それでも文字に強烈に惹かれ、読み書きをこっそり覚えようとした少女は、打たれ蔑まれました。やがて彼女の詩の才能はジプシー社会に逃げこんでいた作家に知られるところとなり、彼女の詩を収めた本も出版されます。しかし、このことがジプシー社会の秘密を明かす裏切り行為とみなされて、彼女はジプシー社会から追放され、精神を病んでしまうのです。精神病院で「読み書きさえおぼえなけりゃ、幸せだった」とつぶやくパプーシャ。この言葉にはレトリックなどではない、実感がこもっています。

このジプシー詩人を描いているのが「パプーシャの黒い瞳」という映画です。その内容もさることながら、ナチスが台頭する時代の重さと自然界の厳しさを感じさせるモノクロ映像の美しさは、素晴らしいものでした。でも、一番惹きつけられたのは、やっぱりパプーシャの詩。晩年には「詩なんて一度も書いたことがない」とさえ宣うようになってしまった、決してハッピーエンドではない彼女のモノクロ人生の中で、その詩は力強く煌めいていました(以下ネタバレあり、というか既にあり)。


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天才マルチリンガル青年が教えてくれたコトバの本質

17歳で20カ国語を操る天才少年が語った、“コトバの本質”が奥深い」という記事を知人がFacebookで紹介しており、とっても興味深く読みました。言語ネタ、やっぱ好きなんだよなぁ〜。お時間ありましたら、ぜひリンクをクリックして読んでみてください。ちょい長めですが。

そうそう、他の言語を話せると、何かの芸みたいに思われるもんです!私も留学中に日本に帰る度に、「英語、喋ってみて」ってよく言われましたっけ(こういう時、咄嗟に言うこと思いつかなくて、困ったわ)(英語圏で立派に通じる “Tofu” “Karaoke” “Harakiri”なんか、ネタ的にはいいかも)。英語だけでもそうだというのに、このティム青年のように20カ国語も話せるとなると、延々なる「○○語で〜〜って言ってみて」的リクエスト責めにあってしまうのでしょうね〜、お疲れ様です。しかし、彼がこんなに多くの言語を習得できたのは、天性の音に対するセンス、言語習得プロセスをシステム化できる知性、インターネットの効果的利用、そしてもちろん努力の賜物だと思います。全て彼と同じというわけにはいかないでしょうけれども、とても参考になりました!

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「東京確認」~ 東京のどこかにいるあなたと握手をしよう

久しぶりに詩を書きました。もっと正確に言うと、まぁ人様に聞いて頂いてもいいかな、という詩が書けました。詩の出来はともあれ、私の人生の節目の記録にはなるでしょう。20年以上もの海外暮らしをひとまず終え、日本で暮らし始めて最初に書いた詩ですから。といっても、既に帰国して2ヶ月くらい経ちましたけどね。いや〜、ただの一時帰国と違って、なんだか緊張してます。慣れない人混みの中、人にぶつかったり、改札でつっかえたりする度に、心の中で「未熟都民で、すみません」「私、実は帰国子女なんで」なんて呟いてます。いや、ホントに。

さて、この「東京確認」は東京のオープンマイクで、東京の方に聴いて頂く前提で書いた詩。詩を読む場所やオーディエンスを想定して書くと、面白い流れができたりするもんですね。以前に読んだ「博士の愛した数式」に、「博士が、言葉の代わりに数字を持ち出すのは『数字は相手と握手をするために差し出す右手であり、同時に自分の身を保護するオーバーでもあった。」という文がありましたが、私にとってもこの詩は「東京にいる誰かと握手をするために差し出す手」なのかもしれないな。ってなわけで、こんな未熟都民ですけれど、よろしくお願いいたします。(ヘッドホンで聴くと、BGMとか蝉の声とか街の音入りで、なんかイイ感じです)

これは、いわばマイクレス・オープンマイクというか、マイクなしの朗読会だったんですけど、初対面ながら他の詩人や朗読人の方達と朗読の合間にディープなお話ができ、まるでそれぞれが持ち寄ったテキストが握手の手になってくれたみたいでした。アメリカのオープンマイクはノリいい・バラエティー豊か・客多い、って感じでしたが、日本のオープンマイクは少人数ながら、個人的にゆっくりお話ができたり、披露される芸に年期が入っていたりで、非常に味わい深いです。どちらも効いてくる場所が違いますが、いい刺激になりますわ。

字ヅラも楽しみたい方のために、テキストも載せますね。

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アナ雪マルチリンガル版の一石から、マルチ方言版へと広がる「ことば」の波紋についての考察

いやぁ、アメリカにいても日本にいても耳にしない日はないのではないかと思われ、文字通り山羊も杓子も歌っている「Let It Go〜ありのままで〜」なんですが、ディズニーが上記の25カ国語バージョンを公開した頃から私も釣られ、最近になっていろんな方言バージョンが出て来るようになってからは、とても楽しく聴いております(映画は観てないけど)。これまでのディズニー映画の曲からは、これほどまでの勢いで方言バージョンが生まれなかったことを考えれば、やはりこれは最初にマルチリンガル・バージョンという一石が投げられたからこそ広がった「ことば」の波紋のように思えてなりません。元々は単なるマーケティング戦略に過ぎなかったのでしょうが、それが「博多が危機なんよ♪」に行き着くとは、ディズニーにも想定外だったことでしょう。これまでも、映画を公開する国向けに多くの吹き替えバージョンを作っていたディズニーですが、それらを1つの歌に詰め込むという作戦は、これまでにありそうでなかったもの。これも、英語帝国主義的だったアメリカが「これからの時代はマルチリンガルで行かなきゃ」って、やっと悟りつつある変化の現われかな?(←なにげに上から目線)

何はともあれ、このマルチリンガル・バージョンはおおむね世界中で好意的に受け止められ(反感も買ったようですが、それについては後ほど)、これをきっかけに「○○語バージョン、いいね!」みたいなやりとりが国を超えてなされるようになり、さらに日本では古今東西の方言バージョンが愛でられるまでになって、興行面のみならず社会言語学的にも大きな影響を及ぼしたのでありました。きっと、美味しい多言語サンプラーを味わった聞き手達が、「じゃあ、この中に入ってない私の母国語でも歌っちゃおう!」「私はもっと身近な○○弁で!」と能動的に発信する側になったのですね。これがインターネットを通して加速度的に広まっている、と。では、この「ことば」の波紋の広がりを更にいろんな角度から見てみましょう♪

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「聖書と村上春樹と魂の世界」を読んで感じた「私と聖書とその他の世界」

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今回の日本での一時帰国では、結構イイ本をたくさん手に入れたんですが、その中でも今の自分にドンピシャだったのが、これです。「聖書と村上春樹と魂の世界」あまりに気に入ったので、人にあげて、もう1冊自分に買いました。最近ぼんやり思っていたことが、はっきりと説明されていて、「そうそう、そう思ってたのよ!」っていうのと、自覚してなかった最近の自分の傾向が「なるほど、そういうことだったのか!」とわかる、目からウロコの1冊でした。

このブログでもかなり引用しているのでバレバレかもしれませんが、私はけっこうハルキストなのかもしれないですね。こっぱずかしくて認めたくないんですけど。なんか文章はキザだし、読後感が微妙なこともあって、「ノルウェイの森」から入った頃は、そんなに好きではなかったのですが。「やがて哀しい外国語」などのエッセー、「神の子たちはみな踊る」などの短編集、そして「アンダーグラウンド」を読んだ辺りから、ハマってきた気がします。「海辺のカフカ」はツボでしたし。しかし、とっても保守的なクリスチャン高校に行っていたせいか、本当に起こったことを書いていないフィクションを読むのは悪、みたいな意識がどこかにあるんですよ、私には。キリスト教と村上春樹の小説は相容れないもの、みたいな(実際、この対談を載せた「リバイバル・ジャパン」誌には、批判的なコメントも寄せられ、購読をやめた人もいるという)。でも、聖書は読めなくても、彼の小説は読める、って日もあるんですよね(それもどうかと思うけど)。そんな罪悪感というか違和感を、この本は払拭してくれたのでした。

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「私小説 from Left to Right」から読み解く私生活 from East to West

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最近、バイリンガルやクロスカルチャーに関する児童書や文学にハマっておりまして、そこで日本初の横書き日英バイリンガル小説「私小説 from Left to Right」(水村美苗著)に出会いました。冒頭の頁から、いきなり英語ONLYの横文字世界。でも、あとはこちらにはらり、あちらにはらり、と軽いぼた雪くらいにしか英語は現れませんので大丈夫、中学生程度の英語でも読めるそうですよ。(結構、日本の中学英語って、読解の役には立つんです。)大学院時代、コードスイッチング(二言語以上の言葉を混ぜ合わせて使うこと、いわゆる「ちゃんぽん語」)のリサーチをしていたこともあり、(このブログでも取り上げてましたね)「こんなちゃんぽん小説があるなんて!」と軽くノボせてしまいました。(お風呂で読んでいたせいもある?)対訳付きのバイリンガル本なら結構ありますが、一つの思考の流れが日本語になったり英語になったりしている本ってのは珍しいです。(日本の歌謡曲にはありがちだけど)私の思考言語もちゃんぽん気味なので、こういう文章は自然に脳に染みる感あり。と言うわけで、ページをめくるごとに、いやおうなしに期待が高まっちゃいました!

さて、「言語と文化は切り離せない」とよく言われるように、この小説世界でも、ちゃんぽんなのは言葉だけではなく、文化もまた然り、でした。アメリカで十代から三十代までを過ごした日本人女性の半生記、私が共感できる部分が非常に多かったです。どんな内容かといいますと・・・「私小説」をleft to rightに綴る主人公・水村美苗(著者と同姓同名)は、十二歳の時に家族と渡米し、二十年間アメリカに住みながらもアメリカ人になりきれず、さりとて「モロジャパ」にもなれない大学院生。旧き良き日本に憧れ続け、日米どちらの現実社会にも踏み出せずに、モラトリアムに甘んじている。具体的に言えば、口答試験を先延ばしにし続け、大学町に住みながらキャンパスをも避け、アパートで引きこもり生活を送っている。加えて同棲していたモロジャパな「殿」にも去られたばかりで、篭る一人暮らしのアパートの空気の重いこと、重いこと。でも、この感じ、少しわかります。空気って、体や心を動かしていないと固まって、どんどん身動きが取れなくなるんですよね・・・。孤独ってある意味、自己責任なのかも。

そんな美苗よりも、もっと危なっかしいのは、二歳年上の姉・奈苗。見た目と振る舞いは、基本アメリカナイズされた上、インターナショナルな男性暦を経て、国籍不明の体を晒しています。彫刻家なれど彫刻だけでは食えず、バイトで食い繋ぐ生活。マンハッタンのSoHoのロフトに猫二匹と住んでいる、と言えばオシャレな感じもしますが、呑んだくれ無職DV男と同棲し、妹・美苗に電話でグチる毎日。面の皮厚いようで、泣き虫。自由奔放なようで、繊細。気さくそうで、ソノビッシュ。ミーハーなようで、保守的。日本人らしくないのに、日本に拘る。とまぁ、面白い人です。この姉妹、かなり両極端なんですが、どちらも私と似ているところがあるなぁ・・・

この小説の殆どは、姉妹にとって「渡米二十周年記念日」となった或る一日の間に交わされた、二人の“only you know what I mean”的日英ちゃんぽん長電話会話で占められています。数回の通話の合間に美苗の一人称の語りが挟まれて、二人の現状や過去が浮かび上がっていく、という構成。渡米記念日ということも手伝ってか、二人は感慨深げに日本での幼少時代の思い出や、互いのアメリカ順応(もしくは非順応)の歴史を語り合います。終盤に重い空気が入れ替わるようなカタルシスがあるといえばありますが、筋らしい筋はあらず、話を区切る章もない、不思議な本です。でも、私は筋で引っ張るプロット先行型の小説より、キャラやテーマ、または描写や表現で読ませる小説の方が好みなので、問題なし。キャラ的にも背景的にも共感度は高かったし、テーマはド真ん中に好みだったし、随所に「上手いな~」と思わせる文章があったし、字ズラに拘っているところも、詩的で素敵。ってなわけでワタシ的には、かなりハマりました。湯船のお湯が冷めても、読みふけっちゃったほど。

長~い前置きになってしまいましたが、いよいよ「私小説 from left to right」、略して「しレラ」(←略し過ぎ)に、様々な角度から切り込んでみたいと思います!(ネタバレを避けたい方は、ここまでにした方がいいかもしれません)(というより、ここまで読んでくださった奇特なあなた、ありがとうございます。覚悟あらば、ここからもご一緒しませう。)
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日本へ II

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日本へ II

傷つくあなたを見て、
やっと
あなたを愛しているということを
思い知らされた

苦しむあなたを感じて、
やっぱり
あなたが私の一部だということを
突きつけられた

どんなに遠く離れても
どんなに長く留守にしても
あなたは私の国には変わりない
私の土台には変わりない

(他の国が苦しんでいる時にも
同じ痛みを感じなければ
真の国際人とは言えないのかもしれないが、
私の胸の内にも国境は存在するようだ・・・)

こうして
あなたの体は2.4メートル、私に近づいた
こうして
私の心は太平洋超え、あなたに近づいた


あなたが感じる痛みに
寄り添いたい

これから
立ち上がるあなたを
助けたい

これまで
私を育んでくれたあなたに
お返しをするためにも

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「日本へ」というタイトルで書き出したのですが、「前にも『日本へ』って詩を書いたような・・・」と思って探したら、ありました、ありました(コレです)。( ってことで、これは第二弾です。あれ、私って、結構ジャパン・ラブなんですね。日本ネタの詩は幾つか書いてますが、アメリカネタは一つしか書いたことがありません。擬人化もしてません(ここには載せてませんが)。いやぁ、「失わないとその大切さに気がつかない」ってよく言いますけど、「有事になって初めて気付く」っていうのも、それに近いものがありますね。まぁ、それだけ甘えがあった、ってことなんですけど。でも今回は、甘えてられないわ。逆に私にちょっと甘えてくださいな、日本さん。
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(後日談)
ブログでこの詩を公表してしまってから、日本は西に2.4メートル動いたのではなく、東に2.4メートル動いたのだと知りました。方向音痴ぶりを晒してしまい、すみません。

元はこうでした。

「あなたが2.4メートル
私から遠くなったとしても
私の心は はるかに
あなたに近くなった」

さすがに、そのままだと事実に反するので、五連目だけ書き直させて頂きました。(11月12日付け)

Sister Act のウーピーとかけて、マッチ箱のザラザラと解く。その心は?

昨晩は私の部屋に、いち女子高生がお泊りしていきました。私がアシスタント舎監をしている高校女子寮では、土曜の夜は好きな友達の部屋で寝てもいい「お泊りナイト☆」なんです。で、一緒に”Sister Act”「天使にラブ・ソングを…」を鑑賞。彼女は観た事がなかったらしいけど、私は高校生の頃にリアルタイムでデートで見たっけなぁ。(懐かし~。)でも、彼女が来なかったら、きっとこれ二回も見なかったと思います。(っていうか、まだ観てない続編の方が観たい。)しかし、時間をあけて同じ映画や本に触れると、前には気付かなかった事を学べるものですよね。これぞ年の功、なーんて。

この映画が出た当時、ウーピー・ゴールドバーグの歌が酷評されていて、「そんなに下手かなぁ」って思ってたけど、このストーリーの設定上、あんま上手かったら逆にダメじゃん、と昨日思いましたね。(実力は知らないけど。)ウーピー演じるデロリスは彼女曰く、「取替えのきく」しがないクラブ歌手。私思うに、そんな下手ではないけど「この人じゃなきゃ!」とか「もう一回聞きたい!」と思わせる「らしさ」のある個性的な歌声ではない。そこで、わけあって修道院に送られたデロリスに、ある敬虔なシスターがこう訊きます-「私は世の為、人の為、奉仕をしたくて修道院に入ったんです。でも…私でなければできない、そんな奉仕をしたい。そう思うのは高慢ですか?」はい、いい質問です。私も最近、それ考えてたんです!それって高慢じゃないかって。でも、自分らしさは神様に与えられているんだから、それを生かしたい、と思うのは自然、いやきっと使命なんですよね。でも誰のために?神様や人のためじゃなく、「私を見て!」だと単なる自己顕示欲になってしまうし。(←私はありがち)与えられたタレントをその量と質に関わらず、卑屈にも高慢にもならずに、素直に有効利用したい今日この頃。。。

あと、今回映画を観ながら思ったのは、「デロリス、歌は微妙だけど、教えるの上手いじゃん!」 歌う技術と賛美の心の両方を教え、シスター達をやる気にさせた彼女。バラバラだった歌声を、お互いの声をよく聞くことでまとめた彼女。(そういえば、我が敬愛するクワイヤーの指揮者(またの名を船長)の不思議な名台詞は “Listen louder than you sing!”「歌うより大きく聞きなさい。」だったな。)みんな調和しているけれど、「和して同せず」な歌声で、一人一人の個性を活かした彼女。オペラ調おばあちゃん、ドス効きおばちゃん、超ハイソプラノおばちゃん、コンテンポラリーお姉さん、それぞれが見せ場で輝いていた。周りの声をよく聴くってことは、人を没個性にさせるどころか、自分の持ち場、持ち味を客観的に判らせ、謙虚にしてくれるんですね~。

さ〜て、お待たせいたしました、ここからがなぞときの答えです!「Sister Act のウーピーとかけて、マッチ箱のザラザラと解く。その心は・・・ Continue reading

クリスマス・プレゼント

我が高校のクリスマス・プログラムのために、何か詩を書いてと頼まれました。これは、頼まれないと生まれなかったかもしれない詩、かな。頼んでくれて、ありがとう!もとが英語なので、ちょっとギクシャク感がありますが、そんなぎこちない包みでもちゃんと届けたかったものが届くといいな。

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クリスマス・プレゼント

クリスマス・プレゼントは待っていた
カラフルな服を着て、待っていた
見えない宝を 内に秘め、
開けて欲しい、と待っていた

それを手たちは 引き裂いた
無実な包みは 裂かれ 捨てられ
そして役目は 果たされた
手たちを招き 裂かれてまでも
何かをその手に 届けるために

イエス・キリストも この世にくだり
人の身まとって、やって来た
見えない宝を 内に秘め、
開けて欲しい、とやって来た

それを手たちは 引き裂いた
無実な体は 裂かれ 捨てられ
そして役目は 果たされた
手たちを招き 裂かれてまでも
救いをその手に 届けるために

クリスマス・プレゼントにあなたもなれる
人の身まとって この世に暮し
見えないイエスを 内に秘め、
開けて欲しい、と伝えるならば

クリスマス・プレゼントを誰かに渡そう
あなたの生き様で 手たちを招き
受けた宝を 誰かに渡そう
無残に裂かれた あの主の体が
決して無駄には ならないように